赤松円心について


播磨国(兵庫県西部)の豪族

鎌倉幕府が滅び建武の新政府が成立する元弘の乱で、幕府討伐のために戦った人。



元弘3年(1333年)3月10日幕府方六波羅勢は、豊島郡瀬川に陣をかまえて久々知、酒部、小屋野(伊丹市)に布陣した赤松円心と相対した。このとき阿波守護小笠原のひきいる六波羅援軍が尼崎に船で上陸し、赤松円心の背後を急襲、「太平記」にでてくる「酒部合戦」となった。同書には次のように書かれている。


「六波羅勢が3月10日瀬川に着いたと聞いた円心は、合戦は明日になるだろうと少し油断して、雨にぬれた物具(もののぐ)を干すため近くにあった家に入り雨の止むのを待っている所へ、尼崎から船で上がって来た阿波小笠原勢三千余騎が押し寄せた。円心の軍勢は、わずか五十余騎で懸命に戦ったがかなわず四十七騎が討たれ、円心父子六騎になってしまった。六騎はみな揆(しるし)をすて、大勢の中にまぎれ込んだ。敵はこれがわからなかったのか、また天の助けがあったのか、皆無事で味方の小屋野に三千騎でひかえている中へ馳せ入って虎口を逃れた。六波羅勢はこの戦いで、円心の軍勢は少数と言えどもあざむきがたいと思って引き返し、進めなかった。」

この酒部の合戦の翌日11日、円心は瀬川の六波羅勢に先制攻撃をかけ、大勝利を得た。この「3月11日合戦」に際して伊佐具神社の五輪塔に必勝祈願したと思われる。続いてこの夜、山陽道を攻め上り京都に突入、太平記に言う「3月12日合戦」が行なわれた。この合戦で円心の軍は六波羅勢により洛外に撃退された。六波羅方で円心撃退に最も功をあげたのは、その前年尼崎に上陸し六波羅増援に入洛していた河野九郎左衛門通治の四国勢であった。

この太平記とは別に播磨の「太山寺文書」には同じ戦いについて日程の食い違った記述があり疑問を残している。

播磨国太山寺の衆徒らは護良親王の令旨を受け赤松軍に加わっていた。元弘3年5月10日に自分達の軍功を円心に申し出た文章が「太山寺文書」に残されており、次の様な内容が記されている。

2月下旬赤松軍は六波羅勢を押し返し尼崎付近にまで進出し、23日には尼崎合戦、24日には坂部村合戦が展開された。太山寺衆徒はこれに加わり、尼崎で時教大輔が負傷、坂部村では刑部次郎安重が討死した。3月1日には摩耶山(神戸市灘区)で合戦があった 等々。